REPORT

脳の多様性を理解・尊重し
さまざまな人がより快適かつ心地よく過ごせる社会を実現する

2025年12月24日

B Labが主催する「ニューロダイバーシティプロジェクト」では、脳や神経の多様性を尊重し、誰もが自分らしく力を発揮できる社会の実現を目指しています。今回のニューロダイバーシティプロジェクト・インタビューシリーズでご紹介するのは慶應義塾大学大学院 メディアデザイン研究科 准教授 標葉 隆馬氏(▲写真1▲)の取り組みです。ニューロテクノロジーの発展は多くの可能性をもたらしています。同時に、より良いニューロテクノロジーの活用には、倫理的・法的・社会的課題(Ethical, Legal, and Social Implications: ELSI)への対応も不可欠です。標葉氏は『みんなの脳世界』でニューロテクノロジーを巡るELSIの議論を紹介するとともに、脳情報通信融合研究センター(CiNet)で作成した脳情報活用のためのガイドラインを紹介しました。そんな標葉氏の研究活動について、B Lab所長の石戸 奈々子(▲写真2▲)がお聞きしました。

▲写真1・慶應義塾大学大学院 メディアデザイン研究科(KMD) 准教授 標葉 隆馬氏▲
▲写真2・B Lab所長 石戸 奈々子▲

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脳情報を適切に利活用するために
8つの倫理基準をガイドラインとして作成

石戸:「標葉先生には、今年初めて『みんなの脳世界』に出展していただきました。標葉先生の研究テーマ、そして、今回の出展内容についてお聞かせください」。

標葉氏:「今回の『みんなの脳世界』には慶應義塾大学での研究内容と合わせて、CiNet(脳情報通信融合研究センター)の協力研究員として取り組んでいる活動の内容も出展しました。CiNetでは、脳情報を活用して知覚情報を推定するAI技術『脳情報モデル』を活用するための倫理ガイドラインを作っています。『みんなの脳世界』ではその内容について発表しました。

脳情報の利活用では、機能的磁気共鳴画像法(functional Magnetic Resonance Imaging:fMRI)など、技術が進化したことでさまざまなデータを取得できるようになり、そのデータを基に新たな技術やAIを開発できるようになりました。

ただし、それらのAI技術をどううまく使えば良いのか、より良い形で活用していくにはどうしたら良いのか、事前に自分たちで活用ルールを考えたり、『このように使って欲しい』というメッセージを発信したりすることが大切です。こうした考えのもと、CiNetではガイドラインを作成し、8つの倫理基準を設けてメッセージを出しています。(▲写真3▲)

▲写真3・脳情報を活用したAI技術における8つの倫理基準▲

脳情報の取り扱いとなるので、データガバナンスに関する最先端の情報を取り入れながら対応しています。脳に関することとなると、どうしても『こういう脳の人は、このような傾向になる』とステレオタイプ化されやすく、それが差別やいじめなどにつながる懸念もあります。そうしたステレオタイプの構築、差別などについて反対し、なくしていきましょうというメッセージも出しています。

また、現在、ニューロマーケティングの領域が急速に発達しています。ニューロマーケティングとは脳波や視線などの生体信号を測定・分析することで、消費者の無意識の反応や感情、好みを明らかにするマーケティングの手法です。脳情報の使い方によっては、消費者の思想や価値観に大きな影響を与えることもあり得ます。配慮が必要だというメッセージを発信しています。

さらに、今後、脳情報を利用したさまざまなサービスが登場してくると考えられます。そうしたサービスへのアクセシビリティをどう考えるか、多くの人たちが公平・公正に使えるように、格差がない形で使えるようにしなくてはなりません。せっかくの技術が一部の『お金持ちのためだけのもの』になってしまうことも懸念されます。さまざまな人が自由に使える世界を実現していこうというメッセージを込めて倫理指針を作っています。

『みんなの脳世界』では、こうしたメッセージを紹介し、その背景となっている脳神経倫理(ニューロエシックス)に関する動向を紹介しました」。

ニューロテクノロジーは研究開発の過渡期にある
だからこそ倫理規定もルールも変化していくことが必要

石戸:「このようなガイドラインが、どのタイミングで、どのような背景のもとで作られるのかは非常に興味深い点だと感じています。ガイドラインが必要になるということは、技術が一定の成熟度に達し、実装段階へと進んでいることの表れでもあります。その意味で伺いたいのですが、現在のニューロテクノロジーはどのレベルまで到達しているのか。そして、どのようなことが可能になったために、ガイドラインが必要だという判断に至ったのか。その背景や理由について、お聞かせいただけますでしょうか」。

標葉氏:「技術は急速に進化しています。実際に脳波形から、『どういうタスクをしていたのか』、『どういう画像を見ていたのか』がある程度、再現できるようになってきています。そうしたデータを活用したAIモデルも実際に運用されています。一部は既にニューロマーケティングの領域に転用されています。こうした最新テクノロジーの社会実装が始まり、より良く使うためのルールメイキングが必須であるという機運が高まっています。私自身もそう考えています。そうした中で、より良く使うためのルール作り、どのように使うとより良い社会の実現につながるのかを模索する動きが世界的に起こり、もちろん日本も例外ではありません。

世界各国の状況を見ても『どのように活用するのがベストなのか』は試行錯誤しているところです。各国がお互いの状況をモニタリングしている中にあって日本においても事例が必要です。ただし、ニューロサイエンスの専門家、私のような社会科学の領域の研究者、あるいは産業界も巻き込んでルールメイクやガイドライン作りをするという試みは、まだまだ少ない状況です。その最初の事例になって、ニューロテクノロジーに関する研究や開発に取り組み多くの方々の役に立てると良いと考え取り組んでいます」。

石戸:「AIの倫理指針や個人情報保護など、技術に基づいたルール作りはこれまでも行われてきました。しかし脳情報を扱うからこそ、他とは異なる特有の難しさや配慮すべき点が存在するのではないかと感じています。脳情報だからこそ生じる固有のリスクや課題、そして特に留意すべきポイントはどこにあるとお考えでしょうか」。

標葉氏:「個人情報保護の観点が重要になるというのは、AIの議論とも共通していると思います。ただ、脳情報の場合は、ややイメージ的なところはあると思います。よりセンシティブな情報であるとの印象を持たれやすいと考えられます。『脳の中が見られてしまうのではないか』、『思っていることが筒抜けになるのではないか』というSFチックなところも含めて、より内面に近い情報が扱われるイメージを持たれやすいですし、実際そのような研究、それに近い研究も行われてはいますので、より慎重を期す必要があります。そこがAIとの違いであると感じています。

ニューロテクノロジーは研究開発の過渡期であるのが大きな特徴で、そんな中で、さまざまな技術が日進月歩で開発されています。だからこそ、どのように使うのかといった使い方やルールも変化していく必要があり、その模索の中で、関係する方々がみな『こういうものだったら最低限、合意できる』というラインを探しながら進めていく、それが今、大事になっていると思います」。

脳情報を活用したニューロテックの
社会実装では透明性の担保が大前提

石戸:「どのような技術にも、利便性とリスクのトレードオフが存在すると思います。しかし、利便性が一定以上に実感されるからこそ、社会実装が前へ進むのも事実です。これまでの『みんなの脳世界』の展示においても、コミュニケーションが難しい方々の心理状態を把握し、コミュニケーションを支援することで、社会参画のハードルを下げる取り組みもありました。

標葉先生も、こうした技術が持つ可能性を十分に理解されているからこそ、より適切に活用し前に進むために、ガイドラインの必要性を強調されているのだと思います。そこで伺いたいのですが、こうしたニューロテクノロジーは、神経的な多様性を持つ方々の支援や社会参画に対して、どのような新しい可能性をもたらすとお考えでしょうか。標葉先生ご自身の視点から、そのポテンシャルをどのように捉えているのか、お聞かせいただけますでしょうか」。

標葉氏:「さまざまな脳の情報やデータが取得できるようになっていく中で、例えば特定の刺激に非常に弱く敏感であるなど脳の多様性の理解も進んでいます。我々としてはこういった技術を、そうした特性のある方々がより良く快適に生きていける、過ごしていけるようなサービスの開発に活かしてしてほしいと考えています。

ただし、反対に脆弱性につけ込むようなサービスも、その気になれば作れてしまう状況です。だからこそ、特定の脳の脆弱性に関わる配慮が必要であって、そこにつけ込み利益をあげるようなサービスや技術開発は慎むべきであるというメッセージを出しています。ニューロダイバーシティの視点でも、そこを尊重して、さまざまな人がより快適かつ心地よく過ごせる世界を作りたいと考えています」。

石戸:「全く同意いたします。多くの方々の生活をより豊かにするために開発された技術が、逆に誰かの生きづらさを生んでしまうような状況は、当然ながら避けなければなりません。一方で、どこに線引きをすべきかという問題には非常に難しい側面があります。脳情報に基づいて、感情・性格・認知特性・能力などが一定の精度で可視化されつつある現在、自己理解の深化や、他者理解の促進につながる可能性がある一方で、使い方次第では真逆の影響を及ぼすリスクも存在します。そのため、どこまでを許容し、どこからを制限すべきなのか、そして実際に社会実装する際には何をどのように留意すべきなのか。その線引きの難しさを強く感じています。この点について、現在どのような議論が行われているのか、また線引きや社会実装時の留意点について、どのような考え方が共有されているのかを教えていただけますか」。

標葉氏:「おっしゃる通りで、線引きが難しいというのは大きな議論になりました。実際にはケースバイケースとも言えます。同じ内容であったとしても、その人の特徴によってポジティブな方向にもネガティブな方向にも影響がでてしまうこともあるでしょう。ケースバイケースになるということは、ディスカッションで大きなウェイトを占めていました。

ただ、研究開発やサービスの内容の中身の透明性が担保されるというのが、おそらくどちらの影響が出るにしても検証のためには必要です。さらには、その手前で技術内容の透明性、つまり『どのようにデータを活用しているのか』といった知見をできる限りオープンにして、透明性を高めていく努力が必要です。ニューロダイバーシティの視点でも、ネガティブな影響を最小化する上で非常に重要なのではないか、それがもっとも時間を使って議論したところです。

まずは透明性を担保することに注力すること、それが実際の運用を考えたときにとても大事であるというのがひとつの大きな結論です」。

脳情報を誰がどう使い、その使い方が許されるのか
ディスカッションとルールを作りが必要

石戸:「世界的にも、こうした議論が始まっているとのお話がありました。そこで伺いたいのですが、各国の議論の方向性は概ね一致しているのか、それとも国によって大きな差異があるのか、どのように見ていらっしゃいますか。また、日本におけるELSI(Ethical, Legal and Social Issues:倫理的・法的・社会的課題)の議論について、国際的な動向と比較したとき、進んでいるのか、あるいは遅れを取っているのか、日本の現在のポジションについてもお聞かせいただければ幸いです」。

標葉氏:「世界的に見ると、今はさまざまなところがレポートや指針案を出しています。直近ですとユネスコが新たな文書を出そうとしています。その他にもOECDをはじめ、ユニセフではニューロテクノロジーと子どもの影響、特にネガティブな影響を防いでいこうということに関するレポートを出しています。注目を集めている領域であることは間違いないと思います。

そんな中で日本に関して言うと、国として何か大きな指針を出した状況ではないのが現状です。むしろ、研究開発を実際やっている研究所、例えば私が関わっているCiNetや個別の研究プロジェクトが独自にガイドラインを作り、メッセージを出している状況です。具体的には我々が作ったCiNetのガイドラインと、ムーショットプロジェクトの目標1に参画されている『AI×ニューロテック』の株式会社アラヤが作ったガイドブック、この2つが比較的、目立つ事例ではないかと思います。実際にOECDのガイドラインの中でも日本の事例として言及されているのはこの2つです」。

石戸:「そうした観点から伺いますが、国として議論を先導し、牽引しているのは、現時点ではどの国になるのでしょうか」。

標葉氏:「例えば、アメリカは2014年から2015年にかけて、ニューロサイエンスに関わる倫理指針、あるいはそこに関する重厚なレポートを連続して出しています。それもブレインイニシアティブという大きなプログラムに紐付けて積極的にメッセージを発信していたので、やはりアメリカは2010年代半ばから議論を引っ張った国の1つです。

他にEUの欧州委員会でもヒューマングリーンプロジェクトが進められ、さまざまな議論が展開されました。それを踏まえて政策的なレポートも多く出されています。EUも2010年代に脳科学の議論を引っ張っていた存在です。とりわけイギリスが個別にレポートを出していますので、そうした先進国のいくつかが議論を先導していたと言って良いかと思います。その流れの中で考えると、日本は少し乗り遅れてしまっている状況ではあると感じています」。

石戸:「追加で、2点お伺いしたいことがあります。1つ目は、日本がこの分野で乗り遅れているとすれば、その背景には何があるのかという点。2つ目は、AIでも国ごとに文化的背景を反映した受け入れ方の違いが見られますが、脳科学やニューロテックの領域でも、国によって受け止め方や方向性に大きな差があるのかという点です。この2点について、教えていただけますでしょうか」。

標葉氏:「後者からいくと、国によって受け止め方はおそらく違うと思っています。より前のめりに社会実装していこう、そのための権利保障をしていこうという国もあります。南米のチリではかなり前のめりの議論をしており、その知見も蓄積されてきていると思います。やはり、国によって捉え方も取り組み方も違います。実際、脳科学の研究者たちが政策・制度に影響を与えたり、議論を促したりするためのロビーイングやアドボカシー活動を展開していますので、その影響もあると聞いています。

日本の場合には、例えばアメリカやEUが大きな脳科学研究のプロジェクトを実施するときに、それと並行してELSIの議論やルールメイクについて議論してきましたが、それ以外にはあまり積極的に取り組んできたとは言えないでしょう。その結果、国際的な議論のネットワークの中から『抜け落ちがち』になっています。アジア圏で言うと、むしろ中国や韓国の方が積極的に投資をして国際会議の招致もしていますので、日本は少し不利な状況にあるのが現状です」。

石戸:「AIについても同様ですが、リスクを理解していても、私たちは知らず知らずのうちに取り込まれてしまうことがあります。たとえば、心のケアを目的にカウンセラー代わりとしてAIを活用していたものの、最終的に望ましくない結果を招いてしまった事例も報告されています。

このように考えると、技術が人の心へ無意識のうちに踏み込んでいくことの意味について、標葉先生は、どのようにお考えですか。技術が人の内面や心の領域に入り込むことをどのように捉えていらっしゃいますか。また、社会全体への影響や、個人のアイデンティティ形成に与えるインパクトについても、ご意見を伺えればと思います」。

標葉氏:「無意識や、本人が必ずしも意識していなかったような、あるいは知らなかったようなことまで分かってしまうことは、もちろん功罪両面あると思っています。例えば、分かっていなかったようなストレスや自分が辛いといったものを先見的に見つけてケアができる、介入ができることで、より適切なケアを受けることにより、心の健康や心身の健康が戻しやすくなるというメリットがあります。

その一方で、知らず知らずのうちにそういったデータが取られてしまうなど、ある意味、自分でも知りたくなかったような状況を知ることになってしまうという『知らないでいられる権利』が侵害されるなどのデメリットもあります。そういったところとバランスを取りながら、良い形で活用していくかが重要な課題だと思っています。

そのときにデータのガバナンスが重要な観点になるというのは、日本の議論や現状を見てもそうですし、国際的な研究あるいは政策上の議論を見てもそう思います。実際にセンシティブなデータを取り扱うことになるからです。例えば、子どものデータであっても親が見て良いのかも考える必要があるでしょう。そういった問題を含めて誰がどこまで見て良いのか、その一方で脳機能の低下など、ネガティブなデータが見えてしまったときには適切な介入をしなければならないでしょう。どういう権限や体制を整備すれば可能になるのか、そういったこと自体も決まっていない状況です。このような状況においては、せっかく脳情報を取得して活用できる可能性があったとしても、アクションとしてはなかなか具体的な取り組みを起こせないといったことになりかねません。そういう状況は避けたいし、防ぎたいからこそ、『どのようなデータを誰がどう使うのか』、『その使い方が許されるのか』、『受容されるのか』をしっかりと見極めてルールを作っていく必要があります。

それに則った上で運用していくことが必要になります。こういった我々の事例はまだ小さい一歩ですが、このような議論やガバナンス構築の取り組みがますます広がっていくと良いと思っています」。

石戸:「センシティブなデータであるからこそ、そのデータを使うか使わないかの判断を誰が行うのか、誰がオーナーシップを持つのかといった点について、社会全体としてどのようにルールメイキングを進めていくかは、極めて重要だと感じました。この視点では、情報やデータ活用に関するリテラシー教育を幼少期から育むことが不可欠であり、私自身もこれまで取り組んできたところです。お話を伺いながら、標葉先生方が取り組まれている脳情報についても、同様にリテラシー教育や啓発活動が、いずれは教育現場にまで広がっていく必要があると強く感じました。そこで伺いたいのですが、脳情報のリテラシー教育や啓蒙活動を、これからどのように社会や教育現場に設計・実装していくべきだとお考えでしょうか。今後の方向性についてご意見をお聞かせいただけますと幸いです」。

標葉氏:「おっしゃる通りで、こういった内容や脳情報活用に関する技術的な内容、科学的な内実のメカニズムも含めた教育コンテンツの作成、あるいはもっと社会的なインパクトの影響の説明、議論に関する思考力の寛容、育成に関わる教育コンテンツなどを作っていくのが大事だと思っていて、そういう活動も少しずつ進めています。

ただ、やはり、その内容を研究者だけで作っても難しすぎてしまい、教育現場からはちょっと違うのではという内容になってしまいがちです。現場の先生や当事者の方と協力しながら作っていく必要があると思っています。そういった作業を今後、積極的にやっていきたいと研究者や実践者の一人として思っています。それが1点目です。

2点目としては、今の学校教育におけるいわゆる理科や理系の教育カリキュラムと合うのか合わないのか、もしくは自由研究の分野になるのか。やはり理科に入れるという活動をした方が良いのか、あるいは、それとは別に『私塾』のように実践したほうが良いのか、これらについてはまだ検討していません。

どういう形であればフィージビリティを持って実際の教育カリキュラムの中に取り込めるのか、カリキュラムに取り入れるのが難しいのであれば違った形での教育コンテンツの展開ができるのか、オープン化をしていくのが良いのかなども考えて取り組んでいきたいと考えています。

私からも石戸さんに質問をさせてください。例えば、ニューロダイバーシティに関する教育コンテンツはいろいろな形で展開されていると思います。そこで今、石戸さんが手応えを感じつつあるような、ニューロダイバーシティに関する教育やコンテンツの展開はどのようなものですか。また、『みんなの脳世界』のように今、具体的にやるべきだとお考えの活動などはどのようなものでしょうか」。

石戸:「まず、ニューロダイバーシティという言葉そのものが、日本ではまだ十分に定着も浸透もしていないと感じています。ダイバーシティの観点では、男女の多様性ですら十分に実現できていない状況であり、脳や神経の多様性については、議論のスタートラインにも立てていないというのが私の認識です。

そのため今私が取り組みたいのは、多様な立場の方々が集まり、『脳や神経の多様性を前提とした社会をどう描くか』を対話し議論できる場をつくることです。そのうえで、実現のためのツールや手段を持つ人々の知見を集め、共有し合う。そうした取り組みの基盤となるプラットフォームをまず構築したいと考えています。

日本では、この領域はまだ黎明期にあります。一方で教育現場においては、インクルーシブ教育に関して国連から分離教育への懸念が示されているように、改善すべき点も多く存在します。日本の教育がすべて遅れているわけではありませんが、まだ取り組めることは数多く残されています。私たちが『1人1台端末』の環境整備を進めてきたのも、すべての子どもに合理的配慮を提供できるインフラを整えるためです。こうした基盤づくりは、まだまだ可能性があり、やるべきことは多いと感じています。

今後も、一つひとつ丁寧に取り組みを積み重ねながら、ニューロダイバーシティ社会の実現に向けて進んでいきたいと思っています」。

新しいテクノロジーは公共の福祉制度
福祉政策とセットでないと社会実装されない

石戸:「先ほど『対話や議論が重要だ』というお話をしましたが、前回の『みんなの脳世界』では、SF作家の皆さんにもご参加いただき、ニューロテクノロジーやブレインテックを活用しながら、私たちが目指す『次の時代の当たり前』をどのように形づくっていくのかについて、対話し議論を深めました。こうした場を設けた背景には、技術の社会実装において最も時間がかかるのは、社会受容の部分である という認識があります。

EdTech(エドテック)の領域では、教育現場にデジタルを持ち込むことへの抵抗が少なくありませんでした。1人1台端末の導入に15年も要したことを考えると、『これはどのような技術なのか』『何がメリットで、どんなリスクがあるのか』『リスクを回避するために、私たちは何を準備すべきなのか』といった点について、技術者や政策立案者だけでなく、利用者を含む多様な主体が議論を重ねる必要があります。そして、技術的に社会実装が可能になった時点で、社会受容にかかる時間をできるだけ短縮したい。その思いが『みんなの脳世界』の開催意図であり、SF作家の方々をはじめ、多様な来場者・参加者と対話・議論する場をつくった背景でもあります。

標葉先生も対話という言葉を使われていますが、ELSIの領域では、対話を重ねながらコ・クリエーション(共創)していくという姿勢は、すでに当たり前のものとして定着しているのでしょうか。その点についてもお考えを伺えれば幸いです」。

標葉氏:「いろいろな人と対話するのが大事だという認識は前提になっています。話していると面白いことが出てきます。ニューロテックについて一般の方も含めて話をしていくと、すごい期待感があることが分かりました。『すごいことができるのではないか』という漠然とした期待感も含めてです。一方で、同じように漠然とした不安感をお持ちの方々も多く、やはりSF的に『脳で考えていることまで抜き取られるのではないか』、『記憶を読み取られるのではないか』などを懸念する声もあります。でも、そういう素朴な期待と懸念は大事で、技術を駆動する力でもあるし、そこに答えていかないと社会実装はうまくいかないと思います。そういった声をどれだけ解像度よく捉えていけるかが肝心だと思っています。

ニューロテックに関すること以外で面白かった発言があります。以前に再生医療の対話に関するイベントを行ったときに、『再生医療で長寿・健康になるのは良さそうに見えるけれども、実際に長寿・健康になったら、健康だから働けるよねとなって年金が先延ばしになるのではないか、そうなるのであればこんな技術はいらない』というものです。こうした考え方は、多分、ニューロテックの領域でも同様にあると思います。その技術を最大限活かそうと思ったら、活かしきるための公共政策や社会福祉制度とセットだということを端的に示した例だと思います。

ニューロテックや脳情報を活用しきるためには、科学政策だけでなく公共の福祉制度や福祉政策とセットでないとならないでしょう。私自身で考えが固まっていないので、検討が必要な宿題だと思っています」。

石戸:「『みんなの脳世界』も、まさにそのような対話の場になっていくことを目指しています。先日ラジオ番組に出演し、『みんなの脳世界』や『ちょもろー』について紹介した際、MCの方から『脳の情報が見られるというのは、自分が丸裸にされるような感覚ですね』というコメントがありました。
この言葉を聞いて、やはり多くの方が自分事として受けとめ、正確な事実に基づき、深い理解へとつながる議論の場づくりが重要であると改めて感じました。

その観点から伺いたいのですが、今回、脳情報のガイドラインを策定されたとのこと。このガイドラインが社会に浸透し、多くの人が自ら考え、議論を深めていくために、標葉先生方がどのような工夫をされているのか、ぜひ教えていただければと思います。

実は私たちも、『ニューロダイバーシティ』という横文字は難しく感じられる方が多いのではないかと考え、『みんなの脳世界』という展示名称にしました。ELSIの領域では、専門家だけでなく市民を巻き込み、対話を通じて共に考えることが極めて重要だと考えています。そのための工夫、あるいは国内外で『この方法がうまくいった』『こうした関わり方が有効だった』といった事例がありましたら、ぜひご紹介いただければ嬉しく思います」。

標葉氏:「私たちのグループもそうですし、他の国とグループもそうですが、これだとうまくいくというベストプラクティスがあるかというと、そんなにはあるようには思えません。現時点では少しでも良いものを積み重ねていこうというフェーズだと感じています。

さっきおっしゃっていた横文字が多いというのは面白いですね。ガイドラインでも『データガバナンス』は他の表現が思いつかないのですが、やはり横文字だとピンとこない人も多いのです。そんな用語をなんとか日本語にする、そういう初歩的な努力はまだまだ足りていません。そういう努力も含めた情報の共有がまだまだできていないと感じています。

あと、他のグループで良いなと思ったのは、一般の方々、関係者の方々を巻き込むのに本気で時間と努力をしていることでした。例えば、ニューロテクノロジーを使う権利の運動であるニューロライツ運動における研究者の方々などは、本気で市民の方々や関係者の方々との議論や対話に参加されていて、それだけ本気で関わっているので勢いを感じました。やはり、一般の方々を巻き込むには本気の参加者をどれだけ増やせるかに肝があると思います」。

石戸:「『みんなの脳世界』は今年で3年目を迎えます。1年目は33の出展、2年目は55、そして今年は77の出展と、毎年規模が拡大し、全国からこの分野に関わる多くの皆さまが集まってくださっています。私自身、今後さらに個々のディスカッションの熱量を高めていきたいと考えておりますので、この場をぜひ議論の場としても積極的に活用していただければ嬉しく思います。

ニューロテクノロジーは、人間の理解や社会のデザインそのものに大きな変化をもたらす可能性を持つ技術です。だからこそ、多くの人がその可能性に期待を抱く一方で、同時に怖さも感じることもあるのだと思います。そのような技術を社会に実装していく上では、ELSIの観点からの慎重な設計が不可欠です。そこで伺いたいのですが、ニューロテクノロジーを社会実装する際、ELSIの観点から最も重視すべき設計思想とは何だとお考えでしょうか。標葉先生のお言葉でお聞かせいただければ幸いです」。

標葉氏:「私自身の個人的な見解で言うと、ニューロテックもそうですが新しい技術や知識が導入されることで不幸になる人が一人でも減ることだと思っています。せっかく新しい、面白いことを始めようとしても、差別によって不幸になったり、ネガティブになったりする状況に陥る人が増えてしまうことは誰も望んでいないでしょう。だからこそ、そういったものを防ぎ一人でもそういうマイナスになるような人を減らすというのがこの手の活動の本質だと思いますので、そういったところを頑張ってやっていきたいと思っています」。

石戸:「おっしゃる通りだと思います。同時に、技術があえてすべての領域に浸透しないといいますか、つまり 『技術が導入されない領域』も重要だと感じています。技術が持つ力を過度に発揮させないこと、意図的に境界線を引くことも、社会実装を考えるうえでは欠かせない視点だと思います。その意味で伺いたいのですが、標葉先生ご自身は、技術は『何をしないことが大切なのか』をどのようにお考えでしょうか」。

標葉氏:「変化球的な回答になりますが、技術が出てくると、絶対欲望を喚起します。そこをいかにコントロールまではいきませんが、過剰に刺激すぎないようにするか。そのせめぎ合いなのかなと思っています。そのせめぎ合いがうまくいくのであれば、先ほど言ったような不幸になる可能性は減ると思います。そこの部分の抑制とは言い過ぎですが、欲が暴走しすぎないようなシステム作り、制度設計をうまくやっていくことで、そういった守るところが担保できると良いと思っています」。

石戸:「今回、標葉先生方が展示されるガイドラインを使ってもらいたい対象になる方々が出展者には多いと思います。そこで伺いたいのですが、出展者の皆さまに対して、このガイドラインをどのように使い、どのように活かしていただきたいとお考えでしょうか。また、今回の展示をきっかけとして、どのような対話や共創が生まれることを期待されているのかについても、最後にメッセージをいただければと思います」。

標葉氏:「我々が作ったガイドラインが最も良い『解」だとは思っていません。だからこそ、さまざまな方々に見ていただいて、これは使えそうだと思うポイントをそのまま良い形で転用や活用をしていただければと思っています。全部そのまま使うというよりは、本当に使えそうなところから使っていただくことをやっていただけるなら、それ以上のことはないと思っています。

我々が作ったガイドライン自体はまだバージョン1です。改善していく必要があります。実際の『みんなの脳世界』でお話しさせていただいた内容を基にアップデートしていき、バージョン2、バージョン3へ、現状により即した形に直していきたいと思いますので、今後もいろいろなご意見をいただければと思っています」。

石戸:「標葉先生がおっしゃった通り、私たちもテクノロジーを通じて幸せな人を増やすことを目指しています。その一方で、技術が不幸を生む方向に使われないよう慎重であること、そして新しい技術に対して期待しすぎず、恐れすぎず、適切な距離感で向き合う姿勢も重要だと感じながらお話を伺いました。本日は貴重なお話をありがとうございました」。